2021/01/29 22:25

 

〈創造者は、 大宇宙の景色と聾唖者のような砂漠を進んでいく健気な騎士です。 分れ道にさしかかると、 多分しばらく休止しながら、「どの道をとったらいいだろう? こっちを進めば馬を駄目にするかもしれぬ。 むこうの道だと、 自分が道にまようかもしれない。三番目の道では自分も馬もどうなるかわからない」。そして平衡感覚から第三の道を選ぶにちがいないのです〉。

 

エルザ・オリトレ,田村俶訳『ことばの森の狩人』.

 

 

 

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桂紹隆「ディグナーガの認識論と論理学」

 

 

 

 

バタイユ精神分析を排除しません。しかし、それに頼ってはいません。今、取り上げているような、足に関するテクストならば、当然、フ=ティシズムの理論を大いに援用することもあり得ましよう。ところが、バタイユのこのテクストの場合、《古典的フェティシズム》には、あっさりとしか言及していません。バタイユにとって、身体はどこからも始まらないのです。それはどこでもいいものの空間です。そこに一つの意味=方向を認めることは、ある乱暴な操作、主観的=集団的操作によって初めて可能になります。意味。方向は、高貴と低劣(高いものと低いもの、手と足)という、 一つの価値の介入のおかげで生まれるのです。

 

ロラン・バルト,沢崎浩平訳「テクストの出口」.