ひとりの女性として

 

真実において、女性とか真理は、取り込まれるがままにはならないのです。

真実において取り込まれるがままにならないものは――女性的なのであって、それは女性性(フェミニテ)とか女性の女性性な性性(セクシュアリテ)とか、その他さまざまの本質化する呪物(フェティシュ)によって、性急に言い換えられてはなりません。そんなものは、まさしく、定論主義的な哲学者とか無能な芸術家とか無経験の誘惑者の愚かさに留まっているときに、取り込んだと思い込むものなのです。

 

ジャック・デリダ,森本和夫訳「尖鋭筆鋒の問題」.

 

 

そこで、《女性》は、真理に関心を抱くことがまことに少なく、真理を信ずることもまことに少ないので、もはや、女性そのものを主題とする真理が女性に関係することさえなくなります。まさしく《男性》こそが、女性ないしは真理についての自分の言述が女性に関係すると思い込む――さきほど、去勢の決定不可能な輪郭に関して、私が粗描しつつあり、しかもいつもと同様に逃げて行った地形学的な問題とは、このようなものです――のです。

 

ジャック・デリダ,森本和夫訳「尖鋭筆鋒の問題」.

 

 

私も、やはり、(一人の)女性として書きたいと思います。やってみましょう……。

 

ジャック・デリダ,森本和夫訳『ニーチェは、今日?』討論会より.