Salve Regina お聴きください,女王よ

Salve regina misericordiae

Vita dulcedo et spes nostra salve.

Ad te clamamus exules filii Eve.

Ad te suspiramus gementes et flentes in

hac lacrimarum valle.

 

お聴きください,女王よ,憐みください.

私たちの命であり,恩寵であり,また希望であらせられる御方よ,お聴きください.

私たち追放されたエヴァの子たちは,

この噎びを御身の許へと響かせましょう.

嘆き,また悲哀に泣いている私たちは,ここ盡きることのない涙の谷にて,御身に向けて吐息をついているのです.

 

Eia ergo advocata nostra, illos tuos

misericordes oculos ad nos convente

Et ihesum benedictum fructus ventris tui

nobis post hoc exilium ostende.

O clemens, o pia, o dulcis virgo Maria.

 

ああ,どうぞそれ故に,

私たちをお守りくださる方,

御身のその憐みに溢れる眼差しを,

いままた私たちに注いでください.

そうして,私たちに与えられた追放の罪が贖われるころ,

御身の愛でたき肚の実である救世主の姿をお示しください.

ああ,心優しく虔しみ深き,甘美なる乙女,マリアよ.

 

拙訳

 

 

www.youtube.com

 

 

 Salve ReginaRegina は「女王」であり、この一語によって祈りの捧げられるマリアの形姿は明確に描き出される。
 マリアはイエスの母であって聖書の中に「聖母」の言はなく「女王」も存在しない。聖書の中に登場するイエスの母マリアへの崇敬の念がキリスト教会の進展の中で高まり、聖母として敬われ、やがて天上へと高く挙げられて天の女王、聖母マリアは作り出された。天上のキリストによって冠が冠せられる、聖母の戴冠の場面がしばしばキリスト教絵画等で目にされるが、ペルゴレージの Salve Regina もそのテキストのままに幼児イエスを胸に、冠を戴いて人々の祈りの声に傾聴する女王マリアを描いたと言い得るであろう。
 私達の生命・喜びにして希望 vita, dulcedo et spes nostra であるマリアよ、あなたに向って ad te 私達は祈りの声を高くします。エヴァの子である、追放の身である exsules 私達は。Ad te clamamus, exsules filii Hevae

 ここには明らかに、旧約聖書の創世記に記された楽園からの追放の記憶が響いている。エデンの園から、神の言いつけに背くという罪を犯して追放されたアダムとエヴァの物語の、エヴァの子である私達への救いを、と願う祈念の声。祈りは心の涙を表して、ため息をつき suspiramus, 嘆きながら、泣きながら gementes et flentes, 涸れて尽きることのないこの涙の谷に在って in lacrimarum valle 祈念される。

 教会音楽のテキストは聖書の詞句を源泉としてはいるが、しかし必ずしも聖書の詞句をそのままに使用するものではなく、聖書の詞句を敷衍して新たなことばの中にそのメッセージを託して行く ー 苦難の最中に在って吐息をつきながら歌い祈る女王マリアへの祈りのことばは旧約聖書詩篇 83(84) からとられたと考えられる。

 

3. Salve Regina | バッハの神学文庫

 

 

www.youtube.com

 

 

 

http://gregorian-chant-hymns.com/hymns-2/salve-regina-simple.html

 

 

www.youtube.com

 

震える重い水滴ごしに視つめ / すでに活動している冥府

私ひとりのための小説を書くとしましょう。読者ぬきの。実在しそうにない小説。私はひどく哀れな、ひどくみじめな女ですから誰かに秘密を打明けたりしません。私の所有するものは、すこぶる僅かですから、それは金輪際ほかの人と分ちあえるものではないのです。ひとかけらの食べもの、ひとひらの埃。それが私の全宇宙です。それを私は震える重い水滴ごしに視つめるのです。『オペラ』。シャンデリヤ、限りない音楽。夢を見たい者は夢を見、夢を見うる者は夢を見る、というわけです。仙女の棒のようなオーケストラの指揮棒、光線のたばにつかまった蛾、歌う人形、音を出す操り人形。 一つのごく古い世界。舞台、私の幼い日の玩具、さる人にもらった贅沢な贈物。平らな箱、その舞台の奥にもうけられた背景、舞台のうえのあちらこちらには繁った葉をつないで書割となっている樹木。そして木製の台にくつつけられて立っている張子の俳優たち……。揚幕は赤く、金びかに塗った総(ふさ)がついていて、日除けのように巻き揚げられているのが、私の目に浮びます。この世の舞台という舞台は私にとってはこの舞台なのです。ポール紙と着色した布とで出来あがった一つの世界、私を魅了する会話、 一方の足を折りまげ、もう一方は伸ばして岩のうえに腰をおろしているテノール歌手、そして神聖な顫音、そして奈落の底の低音歌手。

 

エルザ・トリオレ,田村俶訳『ことばの森の狩人』.

 

 

たとえば、いかにして私が、とある百貨店の冥府のような地下駐車場へ降りていったかを、あなたに物語るとしましょうか。まだ建設中なのにすでに活動している冥府。それが私のなかで言わば一つの不安として作用するきっかけとなる、そうした幻想の一つ。それを物語ろうとこころみることにしましょう、私は理解してもらえないのです、人々は私に耳をかたむけません 、充分にはかたむけません、うんうんと言って……。それは言語化されませんし、もっばら私の内的言語のなかで表現されているにすぎないのです。私は冥府めぐりを体験しました、がそれを述べるすべを心得ていないわけです。

 

エルザ・トリオレ,田村俶訳『ことばの森の狩人』.

 

 

2021/01/29 22:25

 

〈創造者は、 大宇宙の景色と聾唖者のような砂漠を進んでいく健気な騎士です。 分れ道にさしかかると、 多分しばらく休止しながら、「どの道をとったらいいだろう? こっちを進めば馬を駄目にするかもしれぬ。 むこうの道だと、 自分が道にまようかもしれない。三番目の道では自分も馬もどうなるかわからない」。そして平衡感覚から第三の道を選ぶにちがいないのです〉。

 

エルザ・オリトレ,田村俶訳『ことばの森の狩人』.

 

 

 

f:id:pas_toute:20210129222314j:plain

桂紹隆「ディグナーガの認識論と論理学」

 

 

 

 

バタイユ精神分析を排除しません。しかし、それに頼ってはいません。今、取り上げているような、足に関するテクストならば、当然、フ=ティシズムの理論を大いに援用することもあり得ましよう。ところが、バタイユのこのテクストの場合、《古典的フェティシズム》には、あっさりとしか言及していません。バタイユにとって、身体はどこからも始まらないのです。それはどこでもいいものの空間です。そこに一つの意味=方向を認めることは、ある乱暴な操作、主観的=集団的操作によって初めて可能になります。意味。方向は、高貴と低劣(高いものと低いもの、手と足)という、 一つの価値の介入のおかげで生まれるのです。

 

ロラン・バルト,沢崎浩平訳「テクストの出口」.

 

 

ひとりの女性として

 

真実において、女性とか真理は、取り込まれるがままにはならないのです。

真実において取り込まれるがままにならないものは――女性的なのであって、それは女性性(フェミニテ)とか女性の女性性な性性(セクシュアリテ)とか、その他さまざまの本質化する呪物(フェティシュ)によって、性急に言い換えられてはなりません。そんなものは、まさしく、定論主義的な哲学者とか無能な芸術家とか無経験の誘惑者の愚かさに留まっているときに、取り込んだと思い込むものなのです。

 

ジャック・デリダ,森本和夫訳「尖鋭筆鋒の問題」.

 

 

そこで、《女性》は、真理に関心を抱くことがまことに少なく、真理を信ずることもまことに少ないので、もはや、女性そのものを主題とする真理が女性に関係することさえなくなります。まさしく《男性》こそが、女性ないしは真理についての自分の言述が女性に関係すると思い込む――さきほど、去勢の決定不可能な輪郭に関して、私が粗描しつつあり、しかもいつもと同様に逃げて行った地形学的な問題とは、このようなものです――のです。

 

ジャック・デリダ,森本和夫訳「尖鋭筆鋒の問題」.

 

 

私も、やはり、(一人の)女性として書きたいと思います。やってみましょう……。

 

ジャック・デリダ,森本和夫訳『ニーチェは、今日?』討論会より. 

 

 

省察

「歴史」は、このように、生のささやかな輝きと交替者のいない死によって成り立っている。

 

ロラン・バルト,沢崎浩平訳「省察」.

 

 

午後六時頃、べッドでうたたねをする。窓は曇り日の夕暮のいくらか明るんだ空に向かって大きく開か れていた。 その時、 私は流体 の幸福感を味わった。すべては液体で、空気 で 、飲めるものだ  (私は、 空気を、天気を、 庭を飲む)。 そして、今、私は 鈴木を読んで いるので、それは「禅」で いうさびの状態にかなり近 いように思える。あるいはまた (私はブランショも読んでいるので) 、 ブランショプルーストについていう《流れる重さ》に近いように思える。    

 

ロラン・バルト,沢崎浩平訳「省察」.

 

 

創造、未聞の祈り

書く行為……、両手のなかに顔を埋めて囁かれる祈り、日々のパンのそれへのように並はずれた欲求と主題とをこめた、未聞の祈り。砂、砂、砂。いったい、どこを通っているのか、その小径は?

 

エルザ・トリオレ  /  田村俶『ことばの森の狩人』

 

創造の小径ですって? 創造の大気。創造の空閑地。創造の天空。それの潜勢状態。衝撃、異変、歓喜と有頂天、私どもみんなの地球の震え、もしくは各人の個々の惑星の震え……。創造の小径はそれ自体反響(エコー)のありかを通るのです。想像してみてください、あなたがたは、ご存知のように沈黙の砂漠のなかで創造しているのだと、音を出すために必要とするものをもたぬ、砂粒で出来あがっているあの砂漠で。静寂。

 

エルザ・トリオレ  /  田村俶『ことばの森の狩人』